「甲鉄城のカバネリ」が面白いので最終話ネタバレ解説・考察

カバネリ

「甲鉄城のカバネリ」・・・それは、恐怖と戦う者たちの信念の物語・・・

以前パテマの解説が評判よかったので、今回はカバネリの私の解釈を簡単に記しておきたいと思います。最終話ネタバレなので注意。

本作のテーマ

この作品のテーマは「恐怖」です。美馬から「臆病者」「恐怖」というワードが繰り返し何度も出てくることから、そう断言しても良いくらいでしょう。

そしてもうひとつ、明白ですが「信念」です。キャッチコピーが「死んでも生きろ」「貫け、鋼の心を」であるからして、そんなところだと思います。

カバネは「恐怖」しか見えない

カバネはいわゆるゾンビ的なものですが、最終話で明らかにされることがあります。それは、「恐怖」に反応する性質のものであるということ。私の解釈では、カバネは「恐怖(臆病者)」しか見えないという設定があると考えています。ウイルスというのは伝染するものですが、「恐怖」も伝染します。美馬は、力ある者だけが生き残れると信じ、「恐怖(臆病者)」のない世界を目指していました。それは、カバネが「恐怖(臆病者)」を喰うものだからです。(より深いところでは、人間も同じ、という話につながっていきます)

九話で、美馬とホロビの刃が対峙するシーン、画面がブラックアウトする演出もこれにつながります。美馬の頬の冷や汗だけが画面に映っているのは、ホロビには「恐怖(臆病者)」だけが見えていることを表現しているわけです。これは、美馬がすんでのところで恐怖心を抑え込んだことを意味し、なおかつホロビはこの冷や汗が恐怖を知らないはずの美馬のものであることを知り、自身が抱く愛により留まったことをも表現しています。

そして、このことを決定付けるシーンが最終話、生駒と美馬の対決の中にあります。わざわざ生駒がカバネになりかけ、視力を失う演出を作っています。生駒が美馬を見つけたその瞬間、美馬は「見つけたか、臆病者を」と名言を残します。つまり、美馬は、カバネが「恐怖(臆病者)」に反応するものであることを知っていたわけですね。この瞬間、美馬のこれまでの行動の真意が判明するわけです。鳥肌モノです。

※臆病者=無名と受け取ることもできますが、わざわざ視力を失う演出を作ってまでやる意味がないので、私は臆病者=美馬のことだと思います。視力を失う演出は少し前から伏線を張るほど重要だったわけで、美馬が臆病者であることを明示するために用意された装置です。

そして、そのことは美馬自身も己が「臆病者」であることを悟ったことになります。恐らく、これは生駒との出会いによって芽生えたものではないでしょうか。自らも「臆病者」になってしまった暁には、潔くこの世を去ることも覚悟の上だったように思います。

「恐怖」に勝つのは「愛」である

「見つけたか、臆病者を」のシーン、無名が生駒の大切な石を落とすカットが挟まれ、それに呼応するように生駒は美馬を見つけます。これは何を意味するのか――「愛」の力です。ここでいう「愛」は、恋愛感情というよりも、無名はもちろん、妹や逞生たちへの想いを含めた「愛」ではないでしょうか(この石にはそういう意味もあることが、公式サイトで配信された最終話EDで語られます)。「愛」を持つ生駒が、美馬を上回った瞬間です。

美馬は父親に裏切られた過去から、「愛」を知らずに「孤高」に生きてきました。「恐怖」を持たぬものがこの世を生き抜ける、と己を信じてきました。それと対比し、生駒が持つ原動力、恐怖をも上回る「愛」の存在が明示されています。「恐怖」があっても「愛」があれば強く生きられるという思想です。

対決前、美馬は「ずっと待っていた。恐れを知らぬ魂。私は今こそ、それを狩る」と生駒に言い放ちます。生駒が「恐れを知らぬ魂」を持っていることを認めている。にも関わらず、生駒はカバネとは対峙している(=恐怖を持っている)。生駒の存在により、美馬の研究に辻褄があわない箇所が現れたため、その理由を知りたがっていたのではないでしょうか。ちなみに「狩る」というのは「殺す」という意味ではなくて、「試す」という意味だと思うのですが、どうでしょう。

→「ずっと待っていた。恐れを知らぬ魂。私は今こそ、それを狩る」は、恐れを乗り越える手段としての「孤高」VS「愛」どちらが正しいのか強いのか決着をつけにきた、という意味ですね(友人の指摘を受け、すんなり納得しました)。生駒に白血漿を撃ったのも、生駒が勝負に勝ったのに倒れている様を見たからでしょう。最後に無名に刺されて穏やかな表情を見せるのも納得がいきます。ここは時代劇のように、男と男の勝負というわけでした。

黒血漿と白血漿

黒血漿をカバネリに打つと、カバネの融合群体になります。白血漿は、その融合群体を解くものです。いずれも、美馬サイドがカバネを研究して創りだしたものです。

というのは表向きで本当は、黒血漿は「恐怖」を増幅させるものであり、白血漿は「恐怖」を解放するものであると私は解釈しています。黒血漿を打つと恐怖の塊になるため、カバネが吸い寄せられて、融合群体になるのです。

このことは恐怖がカバネに作用するシステムを考えれば有り得そうですが、劇中ではそのような明示はないのであくまで空想です。しかし裏付ける演出は最終話にありました。それは、美馬が生駒との戦いに赴く前に、白血漿を受け取るシーンです。この時、白血漿を念のためのカバネ対策として渡されています。白血漿には、カバネに噛まれたウイルスを解毒する力はなかったはずです(そもそも美馬もカバネリであることが明らかになりますが、周りの者たちがそのことを知っていたかは不明です)。ではなぜ、カバネ対策になるのか。それは、恐怖を解放できるからです。恐怖心を持たなければ、カバネに見つかることはない、と美馬サイドは考えているからです。

また、最終話には融合群体となった無名が、人々に罵声され、怯えている演出もありました。これも「恐怖」が増幅されている故ではないでしょうか。

黒血漿を自らに打ってなお恐怖を乗り越える愛による「信念」を貫き通す生駒を見て、美馬は彼の信念を受け入れ、白血漿を打ち(撃ち)、この世界を託すのです。

免責事項

本解釈はあくまで私個人によるもので、正しいかどうかはわかりません。他にも異なる解釈があることでしょう。

最終話について色々批判もあるようですが、この解釈が正しければ非常に美しくまとまっており、神脚本だと思います。ただ個人的には最終話は展開が早く雑な印象を受けたので、1時間SPにして欲しい内容だったな、とは思いました。

p.s. ここに記していませんが、逞生や菖蒲たちの信念も明確に作中で描かれていました。カバネリの「リ」は何なのか。「裏(うら)」「理(ことわり)」このあたり? カバネが「恐怖」の象徴なら、カバネリは恐怖の裏の象徴かもしれませんね。

p.s.
ちなみに、この記事を書くきっかけをくれたかざみ先生は、白血漿を持ちだしたのは自己防衛で無名に打つためで、結局生駒に打ったのも恐怖からだと見ていますね。
http://kazazami.hatenablog.com/entry/2016/07/02/105714

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